難病の告知はするべき?しないべき?

 

1リットルの涙

愛知県豊橋市に住む木藤亜也さん

(きとう あや、1962年7月19日 - 1988年5月23日)は中学3年の時、

頻繁に転んでしまうなどの体の不調を訴え、光生会病院で受診、

その後医師から、手足や言葉の自由を徐々に奪われながら

最後には体の運動機能を全て喪失してしまう

難病「脊髄小脳変性症」と診断される。

 

彼女が闘病中に手が動かなくなるまで書き綴った日記をまとめた単行本が1986年、

名古屋市の出版社から出版された。

 

この本を原作として、テレビドラマが作られた。

それが「1リットルの涙

 

 

沢尻エリカについて書きたいのではない。

 

私が父に癌の告知をした理由に被るシーンがある。

 

 

脊髄小脳変性症」の小学生の男の子が

「先生、ボクの病気治るよね」と聞く。

すると、医師は「治るとも。頑張ろうな」と言う。

 

しかし、男の子は、症状が進み、身体が動かなくなり最後を迎える。

その時、男の子が「先生、なんで本当のことを言ってくれなかったの?

こうなるのなら、もっとしたいことを、していたのに」と。

医師は、告知しなかったことを後悔する。

 

 

私の父は、膵臓癌で亡くなりました

 

父が、ある日、

「どんなに飯を食っても、体重が減る。おかしい」と

私に話しました。

 

夏でしたので、私は

「夏バテしたんじゃない」と言いました。

 

父は、明日、病院に行って来ると言いました。

 

その夜、父は

「先生から、明日、家族の方を連れて来てください」と言われたと話しました。

「明日、いっしょに行ってくれるかい」と、私に言います。

「いいよ」そう言いました。

 

診断室に入ると、どうぞ、おかけくださいと言われる。

 

父は「先生、はっきり言ってください。

癌の人間は、親戚や友達、たくさん見てきたから

覚悟はできています」そう言いました。

 

医師は、私に「話しても良いですか?」と尋ねました。

私は「はい」と答えました。

 

膵臓癌で、余命3ヶ月です。

 

大きい総合病院に行かれることをおすすめします。

 

その後、父は知り合いや親戚の所に行ったり

色々とする事があると、行動をしまくっていました。

 

総合病院で「手術をなさいますか?」と訊かれました。

手術はしないと返答しました。

医師は、膵臓と何かが(忘れてしまいました)

繋がっている血管が詰まっていますので

この手術だけはした方が良いと思います。

そう医師は言いました。

 

 

父は「ステント留置術」をしました。

 

2週間程度で「ステント」も詰まって行きますので

その程度の間隔で、手術をします。

そう医師に言われました。

 

家の近くの個人病院に入院しました。

 

会社には「父の介護のために」と、

6か月休職届を出しました。

 

1週間おきに総合病院に連れて行きます。

最初の頃、「車椅子持って来ようか」と言うと

「車イスなんかいらん。恥ずかしい」と言っていました。

 

しかし、最後の方は、父の方から

「車椅子を持って来てくれ」と言うようになりました。

 

最後の頃は、話かけても返事もない状態でした。

 

ある日、看護婦さんから

「〇〇さんは、夜中、目を覚まして、ベッドの上に座っていらっしゃいます。

背中を擦ってあげると、安心して眠られます。

夜にも面会に来ることはできませんか?」と言われる。

 

そんな状態であることを気付きませんでした。

昼は痛み止め等の薬、眠った状態だったのでした。

 

その夜は、このまま。ここに残ります。

そう言って、ベッドの横のソファーに座っていました。

 

医師から診察室に呼ばれます。

「今夜から、朝までが、山でしょう」

そう言われました。

 

親戚や父の知り合いに電話連絡を始めました。

 

まず母が来ます。

そのままベッドのソファーに座ります。

 

私は休憩室で、連絡作業をしていました。

次から次と親戚や知り合いが集まってくれました。

 

すると母が「お父さんが声を出した」と叫びます。

 

私は父の手を握って「お父さん、お父さん」と話しかけます。

父の目を、ずっと見ていたのですが

目の輝きが消える、そんな感じです。

握っていた手から、すーっと力が抜けました。

父の最期でした。

 

親の死に目に会うことができました。

あのすーっと力が抜ける状態を

昔の人は「魂が身体から抜ける」と言っていたのでしょう。

 

3か月の余命宣告でしたが、6か月生きていました。

 

 

それから、どれくらい経った頃でしょうか。

私は妻に「俺が癌になったら、絶対に教えろよ」と言いました。

「癌でなくても、難病だったら、絶対に教えろよ」そう言いました。

 

元気なうちに、身体が動くうちに

やるべき事をやっておきたいからです。

 

私は、癌や難病は、告知するべきだと考えています。